84件
夏侯淵(かこうえん)は、中国後漢末期の武将。 字は妙才(みょうさい)。夏侯惇の族弟(遠縁の従弟)にあたる。 軍の拠点間における迅速な移動や、それに基づいた奇襲攻撃、前線型武将の指揮、兵糧監督などの後方支援を得意とした。 その迅速な行軍は「三日で五百里、六日で千里」と称えられた。
「DIVER Wallet」アプリと「Tracou Hunter Story」アプリをダウンロードして始めましょう!
曹操(そうそう)は、後漢末期の軍人・政治家・詩人で、実質的な魏の創始者。 字は孟徳(もうとく)。豫州沛国譙県(現:安徽省亳州市譙城区)の出身。 建安十五年に出した「求賢令」の中で「唯だ才是れを挙げよ」と述べ、儒教によらず実務の才のある人物を重用した。 また、曹操が始めた屯田制・戸調制・兵戸制などは魏に受け継がれ、その後の魏晋南北朝時代の制度の礎となった。
孫権(そんけん)は、三国時代の武将、呉の初代皇帝。字は仲謀(ちゅうぼう)。 赤壁の戦いでは、劉備と結んで曹操の軍を破って、江南にその地位を固め、呉、魏、蜀漢の三国鼎立時代を招いた。 山越えの討伐を行い、また交州の士氏を倒してインドシナ半島にも勢力を伸ばすなど、南方に領土を広げた。
司馬懿(しばい)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将・政治家。字は仲達(ちゅうたつ)。 魏の曹操・曹丕に信任され、明帝により大将軍に任ぜられた。 のち、曹爽・何晏を殺して魏の政権をとり、孫の司馬炎が西晋を建国する基礎を築いた。
諸葛亮(しょかつりょう)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・武将(軍師)。伏龍、臥龍とも呼ばれる。 襄陽の隆中に隠れていたが、蜀漢の劉備の三顧の礼に応じて仕え、戦略家として活躍した。 天下三分の計を説き、孫権と連合して赤壁の戦に曹操を破り名を天下にとどろかせた。
陸遜(りくそん)は、中国の後漢・三国時代の武将・政治家。 字は伯言(はくげん)。諡は昭侯。陸続の玄孫。陸褒の曾孫。城門校尉陸紆の孫。九江郡都尉陸駿の子。 後漢末期より、山越討伐で頭角を現し、孫権に才能を買われ、仕えた。 関羽討伐や夷陵の戦いにおいてその名をあげ、軍政両務における呉の重臣として重用されたが、晩年は二宮事件に巻き込まれ、孫権と対立した。
張遼(ちょうりょう)は、中国後漢末期から三国時代の武将。 字は文遠(ぶんえん)。并州雁門郡馬邑県(現:山西省朔州市朔城区)の出身。前漢の聶壱の子孫に当たるという。 合肥戦線に代表される張遼の武勇は江東にも広く轟いたため、 江東の子供が泣き止まない時も「遼来遼来(張遼が来るぞ)」と言えば必ず泣き止んだ、という逸話がある。
甘寧(かんねい)は、中国後漢末期の武将。孫権に仕えた。 字は興覇(こうは)。益州巴郡臨江県(現:重慶市忠県)の出身。 孫権から「曹操には張遼がおり、余には甘寧がいる。これでちょうど釣り合いが取れているのだ。」と言われるほど重用されており、数々の戦いで活躍した。
孫策(そんさく)は、中国後漢末期の武将。 字は伯符(はくふ)。揚州呉郡富春県の人。若くして父の孫堅を亡くし、19歳のとき、袁術の将軍となった。 袁術軍に組み込まれていた孫堅の兵1000人余りをまとめて軍を編成し、劉繇を倒して勢力を拡大した。
周瑜(しゅうゆ)は、中国後漢末期の武将。 字は公瑾(こうきん)。揚州廬江郡舒県(現:安徽省六安市舒城県)の人。二世三公(周景・周忠が太尉)の出自。 赤壁の戦いで曹操軍を打ち破ったことからも、知略・武略に優れており、寛大な性格で人心を掴むことが得意だった。 また、若い頃より音楽に精通しており、当時の人々は「曲に誤りあれば周郎が振り向く」という歌を作って囃したという。
孫堅(そんけん)は、中国後漢末期の武将。字は文台(ぶんだい)。揚州呉郡富春県の人。 若いときから武力によって頭角をあらわし、長江の北の諸県の次官を歴任した。黄巾の乱に際しその討伐に大功を立て、長沙太守に出世した。 やがて朝廷に横暴を働く董卓に対して討伐軍が蜂起すると、袁術の部将として参加し勇名をはせた。
夏侯惇(かこうとん)は、中国後漢末期から三国時代の武将、政治家。 字は元譲(げんじょう)。豫州沛国譙県(現:安徽省亳州市譙城区)の人。曹操の従兄弟で、夏侯淵は族弟(遠縁の従弟)にあたる。 徐州から帰還した曹操の下で呂布討伐に従軍したが、左眼に流れ矢が当たる怪我を負った。 このことから、同族の夏侯淵と区別するために盲夏侯とあだ名された。
黄忠(こうちゅう)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢にかけての将軍。 字は漢升(かんしょう)。荊州南陽郡の人。 劉備に仕え、益州や漢中の攻略等で活躍した。益州平定後、討虜将軍に任命された。
呂布(りょふ)は、中国後漢末期の武将・群雄。 字は奉先(ほうせん)。并州五原郡九原県(現:内モンゴル自治区包頭市)の人。 呂布は腕力が常人よりも遥かに強く、弓術・馬術にも秀でていたため「飛将」と呼ばれ、 愛馬の赤兎馬とともに「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と賞された。
趙雲(ちょううん)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢にかけての将軍。 字は子龍(しりゅう・しりょう)。冀州常山国真定県(現:河北省石家荘市正定県)の人。 後世、中国では趙雲を、目上に対して臆せず諫言する勇敢さに加え、文官的な知性、大臣の気質を持つ儒将として高く評価した。
周瑜(しゅうゆ)は、中国後漢末期の武将。 字は公瑾(こうきん)。渾名は周郎。揚州廬江郡舒県(現:安徽省六安市舒城県)の人。二世三公(周景・周忠が太尉)の出自。 赤壁の戦いで曹操軍を打ち破ったことからも、知略・武略に優れており、寛大な性格で人心を掴むことが得意だった。
張飛(ちょうひ)は、中国後漢末期から三国時代の蜀の将軍・政治家。 字は益徳(えきとく)。幽州涿郡の人。 後漢末の群雄の一人である劉備の挙兵に当初から付き従った人物で、その人並み外れた勇猛さは中原に轟いた。
劉備(りゅうび)は、後漢末期から三国時代の武将、蜀漢の初代皇帝。 字は玄徳(げんとく)。黄巾の乱の鎮圧で功績を挙げ、その後は各地を転戦した。 諸葛亮の天下三分の計に基づいて益州の地を得て勢力を築き、後漢の滅亡を受けて皇帝に即位して、蜀漢を建国した。 その後の蜀、魏、呉による三国鼎立の時代を生じさせた。
姜維(きょうい)は、魏・蜀漢に仕えた将軍。 字は伯約(はくやく)。涼州天水郡冀県の出身。 「姜維は仕事を忠実に勤め、思慮精密である。涼州で最高の人物だろう」「用兵に秀で、度胸があり、兵の気持ちを深く理解している」 などと高く評価され、倉曹掾・奉義将軍の官を与え、当陽亭侯に封じている。
関羽(かんう)は、中国後漢末期の武将。 字は雲長(うんちょう)。司隷河東郡解県(現:山西省運城市塩湖区解州鎮常平村)の人。 蜀漢の創始者である劉備への忠義を貫き、赤壁の戦いで曹操の軍を撃破。 その人並み外れた武勇や義理を重んじた彼は曹操など同時代の多くの人から称賛された。
張飛(ちょうひ)は、中国後漢末期から三国時代の蜀の将軍・政治家。 字は益徳(えきとく)。幽州涿郡の人。後漢末の群雄の一人である劉備の挙兵に当初から付き従った人物。 山東省・江蘇省一帯や荆州での戦いに終始劉備のために奮戦し、一騎万人に当たる勇猛さによって関羽とならび称された。
馬超(ばちょう)は、中国後漢末期から三国時代にかけての将軍。 字は孟起(もうき)。司隷扶風郡茂陵県の人。 関中・隴右に割拠する群雄として曹操の西征に反発し、韓遂ら諸軍閥と共に造反した。 後に涼州において捲土重来を果たすも、現地の士大夫らに離反され、拠点を失ったが、 流浪の末に身を寄せた益州の劉備の下で厚遇され、高位に上った。
Page 2/2
Ⓒ諏訪原寛幸/七大陸