トレクーハンター戦国合戦
82件
豊臣秀長
豊臣 秀長(とよとみ ひでなが) は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の異父弟。豊臣政権において内外の政務 および軍事面で活躍を見せ、天下統一に貢献した。最終的には大和・紀伊・和泉の3ヶ国に河内国の一部を加え、約110余万石の大名となるに至る。 徳川家康や伊達政宗など外様大名を抱える豊臣政権における調整役であり、政権の安定には欠かせぬ貴重な人物だった。
織田信秀
織田 信秀(おだ のぶひで)は、戦国時代の尾張国の武将、戦国大名。織田信長の父。 智勇に優れた武将であり、守護代二家のうちの大和守家下の庶流という低い地位から尾張各地、そして一時は西三河まで支配し尾張国を代表する勢力となった。 父・信定の築いた勝幡城を継承し、当時の経済流通拠点を支配下に組み込み、それによって商業の活性化を図るなどの先見性を持っており、後に信長の飛躍の基盤を作った。
徳川頼房
徳川頼房(とくがわ よりふさ)は、常陸水戸藩の初代藩主。徳川家康の十一男で水戸徳川家の祖。 1625年から1630年まで、寛永3年の上洛の年を除いて毎年水戸に就藩し、水戸城の修復や城下町造営、さまざまな法令を定め、城下の整備を行った。 しかし、家光の親政となると、頼房の就藩は途切れがちになり、家光死去の1651年までの17年間、就藩はわずか3回となっている。水戸藩主は基本的に江戸常住である定府となった。
北条綱成
北条綱成(ほうじょう つなしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。後北条氏の家臣。相模国鎌倉郡玉縄城主。北条家の主力部隊五色備えのうち、黄備え隊を率いた。 綱成与力衆は組織上、玉縄衆とも呼ばれた。天文6年から上杉家との戦いをはじめ、各地を転戦する。北条家の北条五色備では、黄備えを担当する 合戦では、朽葉色に染めた6尺9寸の練り絹に「八幡」と書かれた旗を指物としていたので、その旗色から「地黄八幡」と称えられた。
島津家久
島津家久(しまづ いえひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。島津貴久の四男。 天正12年3月、家久を総大将として島原に向かうことになった。島津軍は有馬晴信の軍と合わせても5千から8千であったのに対して、龍造寺軍は1万8千から6万という大軍である。 しかし家久は、龍造寺軍を沖田畷と呼ばれる狭隘の湿地帯に誘い込み、総大将の龍造寺隆信をはじめ、一門・重臣を含む龍造寺勢を討ちとった。
本多忠勝
本多 忠勝(ほんだ ただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑として崇められた。愛槍は笹穂型の大身槍「蜻蛉切」。天下三名槍の一つに数えられている名槍。 生涯において参加した合戦は大小合わせて57回に及んだが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられている。
豊臣秀長
豊臣 秀長(とよとみ ひでなが) は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の異父弟。豊臣政権において内外の政務 および軍事面で活躍を見せ、天下統一に貢献した。最終的には大和・紀伊・和泉の3ヶ国に河内国の一部を加え、約110余万石の大名となるに至る。 徳川家康や伊達政宗など外様大名を抱える豊臣政権における調整役であり、政権の安定には欠かせぬ貴重な人物だった。
今川義元
今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代の武将。駿河国および遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。姉妹との婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義理の兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者。合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで領土を拡大させた。
加藤清正
加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。 肥後国熊本藩初代藩主。豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。 築城の名手として知られ、熊本城や名護屋城、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わり、領内の治水事業にも意欲的に取り組み、熊本県内には現在も清正による遺構が多く存在する。
蜂須賀小六
蜂須賀 正勝(はちすか まさかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の股肱の家臣。播磨龍野城主。徳島藩主蜂須賀家の家祖。 通称は小六(ころく)もしくは小六郎(ころくろう)で、特に前者は広く知られているが、のちに彦右衛門(ひこえもん)と改名している。父の死後、正勝は郷里を出て斎藤道三に近侍した。 道三死後は尾張国の岩倉城主・織田信賢に仕えた、しかし信賢は織田信長と犬山城主・織田信清の連合に攻められ、敗れて降伏。このため正勝は信清に一時的に仕えるが、信清も信長と不和となって永禄7年に甲斐国へ亡命したので、信長に仕えるようになり蜂須賀郷に戻ったとされる。
毛利元就
上杉景勝
上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権の五大老の一人。米沢藩の初代藩主。山内上杉家17代目。 上田長尾家出身で上杉謙信の養子となり、名を上杉景勝と改めた。実子のいない謙信の死後、上杉家の家督相続を争った御館の乱で勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となった。 豊臣秀吉に仕え、豊臣家五大老の1人として、会津藩120万石を領した。
Ⓒ諏訪原寛幸/七大陸