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李厳
李厳(りげん)は、中国後漢末期から三国時代の武将・政治家。荊州南陽郡の人。字は正方。後に“李平”と改名。子は李豊。『三国志』蜀志に伝がある。
若い頃に郡の官吏となり、才幹の良さで賞賛を得た。荊州牧であった劉表は李厳を取り立て、いくつかの県の令を歴任させた。建安13年、秭帰県令を務めていた時に曹操が荊州に侵攻したため
、益州へ逃れて劉璋に仕えた。成都県令に任命され、そこでも有能であるとの評判を得た。
張角
張角(ちょうかく)は、道教の一派である太平道の創始者。冀州鉅鹿郡の人。弟は張宝・張梁。
黄老を奉じて、太平道を率い黄巾の乱を引き起こした。自ら大賢良師と称し、太平道の信者を集め養っていた。
信者たちに、平伏して罪を懺悔させたり、符水を飲ませることで病を癒したため、人々の信奉を集めた。
10余年のうちに、数十万人の信者を8つの州で獲得するに至ったため、信者を36の「方」に属せしめ、それぞれの方に渠帥を置き管轄させた。
劉禅
劉禅(りゅうぜん)は、三国時代の蜀漢の第2代皇帝。魏に降伏したため、皇帝としての諡は本来ないが、漢の後継を称する劉淵によって諡を贈られた。
207年、父の劉備が劉表に身を寄せ、荊州の新野にいた時に側室の甘氏との間に生まれた。翌208年に曹操が荊州を攻めた際に、趙雲に救われて九死に一生を得た。
孫夫人が、劉禅を連れて呉へ帰ろうとしたことがあったが、張飛と趙雲によって奪還されている。劉備が益州の地を奪い、さらに漢中を攻め取って漢中王になると太子になった。
霊帝
孟達
孟達(もうたつ)は、中国後漢末期から三国時代の軍人。字は子敬、後に子度。司隷扶風郡の出身。父は孟佗。子は孟興。甥は鄧賢。
劉璋・劉備に仕えて勢力の確立に貢献したが、後に魏へ降伏し、最後は謀反を起こしたため殺害された。正史三国志に独立した伝は立てられておらず、曹叡・司馬懿・劉曄・法正・劉封・費詩の伝にそれぞれ分散して事蹟が残るのみである。また郤揖を部下にしていたため、郤正の伝にも記述がある。なお、魏の安定太守を務めた同姓同名の人物がいる
華佗
華佗(かだ)は、中国後漢末期の薬学・鍼灸に非凡な才能を持つ伝説的な医師。字は元化。諱は不明。本貫は豫州沛国譙県。「華陀」とも書く。
養性の術に通暁しており、当時の人々は彼の年がもう百歳になるはずだとしたが、見たところは若々しかった。また、華佗は医術や薬の処方に詳しく、麻酔を最初に発明したとされており、
「麻沸散」と呼ばれる麻酔薬を使って腹部切開手術を行なったという。そのため、民衆から「神医」と呼ばれた。また、屠蘇や「五禽戯」と呼ばれる体操による健康法の発明者とも言われている。
魏延
魏延(ぎえん)は、中国後漢末期から三国時代にかけての蜀漢の武将。字は文長。荊州義陽郡の人。劉備の荊州時代以来の配下。
建安16年、劉備入蜀の際、彼が指揮を執る軍の配下として随行し、何度か戦功を立て、牙門将軍に昇進した。
劉備が群臣との会合の場で、魏延に重任を拝命する際の抱負を問うたところ、「曹操が天下の兵を挙げて攻め寄せるならば、大王のためにこれを防ぎ、曹操配下の将軍が10万の兵で来るならば、
これを併吞する所存でございます」と語った。劉備や群臣はその勇敢な発言に感心した。
袁紹
袁紹(えんしょう)は、中国後漢末期の武将・政治家。字は本初。豫州汝南郡汝陽県(現:河南省周口市商水県)の人。
何進と協力して激しく宦官と対立。宦官勢力を壊滅させることに成功したが、董卓との抗争に敗れ、一時は首都の洛陽より奔り逼塞を余儀なくされた。後、関東において諸侯同盟を主宰して董卓としのぎを削った。同盟解散後も群雄のリーダー格として威勢を振るい、最盛期には河北四州を支配するまでに勢力を拡大したが、官渡の戦いにおいて曹操に敗れて以降は勢いを失い、志半ばで病死した。
魯粛
魯粛(ろしゅく)は、中国後漢末期の武将・政治家。字は子敬。徐州下邳国[1]東城県の出身。子は魯淑。孫は魯睦。
袁術・孫策・孫権に仕えた。赤壁の戦いでは降伏派が多い中、主戦論を唱え周瑜・孫権と共に開戦を主張した。
撃剣に長け弓術・騎術に秀でていた。袁術配下に離脱する魯粛は、私兵を引き連れて、周瑜とともに江南を渡り、役人達(袁術勢力)から追っ手を差し向けられたようだ。
魯粛は弓を引き、地面に盾を何枚も矢で貫いてみせて彼らを威嚇した。
袁術
袁術(えんじゅつ)は、中国後漢末期の武将・政治家。字は公路。豫州汝南郡汝陽県(現:河南省周口市商水県)の人。
当初は官界にあったが、董卓による動乱の中で群雄の1人として名乗りを上げ、反董卓連合の崩壊後は孫堅らの支持を受けて一族の袁紹と抗争を繰り広げた。一時は曹操に敗れ揚州に追いやられたが、孫策らの力により揚州を実効支配し勢力圏を再構築。皇帝を称し、国号を「仲」としたが、孫策らの離反や曹操の攻撃により数年で瓦解し、失意の内に没した。
献帝
献帝(けんてい)は、後漢の第14代の皇帝。諱は協。霊帝の次男で、少帝劉辯の異母弟。母は美人の王栄。諡号は、魏からは孝献皇帝、蜀漢からは孝愍皇帝。
呂貴という乳母の名が『後漢紀』にみえる。おなじく『後漢紀』によると、既に当時、霊帝には嫡妻の何皇后が産んだ長男の劉辯がいたが、暗愚であったため皇太子に立てていなかった。
そこで、大臣たちは利発な劉協を皇太子に立てるよう進言した。しかし霊帝は何皇后を寵愛し、また外戚である何進にも遠慮していたため、結局、劉協を後継者に指名できなかった。
霊帝は病が重くなると、上軍校尉の蹇碩に劉協を託した。蹇碩は董太后や董重とともに何進を排除し、劉協の擁立を目指したが失敗した。
Ⓒ諏訪原寛幸/七大陸